情報のコーディネーター  第78号
         
    平成24年10月2日発行
          窮すれば通ず。 情報こそ反転の力なり。 コトバで心の壁を破れ。

                   今回の目次
            □  親鸞の悪人正機説について                              

  親鸞の弟子唯円の著「歎異抄」第3章に「善人なほもて往生をとぐ。 いはんや
悪人をや」という有名な言葉があります。  

  親鸞はそう仰ったというのです。   悪人の方に救済の力点が置かれた表現にな
っていることから、学者はこれを悪人正機説と呼んでいます。

  尤も、この説は法然も述べていますし、法然が対立した旧仏教の僧侶も主張して
いました。    しかし、それまでは善人の往生が当然とされていたのに対し、親鸞
は自力作善の人(善人)を弥陀の本願の対象ではないと断定しており、そこに親鸞独特
の解釈があります。

  我々一般の常識からするとやや奇異な感じの解釈ですが、親鸞の思想を理解
すればそうだと分かって来ます。

  まず、悪人とは何かですが、親鸞は自分こそ悪人であり、衆生の本質は悪人だと
見るのです。     そして、阿弥陀仏が何よりも救済の対象にしたのは、自力作善
の人(善人)ではなく、自分のような悪人だったと考えるのです。

  ところでこの自力作善の人(善人)とはどういう人のことなのでしょうか。
歎異抄にはその詳しい説明はありませんが、親鸞に拠ればそれは偽善者に過ぎない
ということです。

  つまり、衆生の行いには欲望という煩悩が常にあるし、善いことをしたと思っても自分
の善悪の基準に従っているだけであること、善いことをしたと思っても常によい結果が
起こるとは限らないこと、

自分の善行によって往生しようと思うことが阿弥陀仏の誓願の働きを疑うものであること、
そういうことに気付いていないで自力で救済されることを願っている人が善人の姿だと
見たのです。

  ですから、善人であってもその偽善性に気付いて悪人を自覚し自力を捨てた時には
救済されることになります。  それが「善人なほもて往生をとぐ」の意味です。

  逆に、悪人とは善行を積みたくても積めないでもがいている非力の人であり、自力
では如何にしても煩悩から抜け出せないことを自覚している人、善いことをしたと思って
も常によい結果に繋がらないことに気付いている人、つまりは衆生一般がそうではない
かと親鸞は云うのです。

  弥陀の本願とはこのような悪人を救済の対象にしているのであるから、「いはんや
悪人をや」でいいと親鸞は云っているのです。

  そして、思想的に親鸞は法然より一歩進めて、罪業深重の凡夫である(悪人である)と
自覚して阿弥陀仏より心の奥に廻向せられている信心に目覚めた時、衆生は救済され
るとしたのです。

  念仏よりも信心の自覚に重点を置いたところに親鸞独自の思想があります。

  この思想は最近、西洋の哲学研究者からも高い関心が寄せられています。
20世紀最大の哲学者の一人とされていますハイデガーも「歎異抄」を読んだ時の印象を
日記に書いています。
 以下はその日記の内容です。
http://www.shinrankai.or.jp/koe/090828ronbun.htm

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