情報のコーディネーター  第74号
         
    平成24年1月14日発行
          窮すれば通ず。 情報こそ反転の力なり。 コトバで心の壁を破れ。

                   今回の目次
          □  石川啄木という人



      □ 石川啄木という人

 石川啄木が肺結核で亡くなったのは明治45年(1912年)4月13日のことでまだ26歳で
した。   まもなく没後100年になります。

  啄木の歌集「一握の砂」が出たのは亡くなる2年前の1910年で、歌集「悲しき玩具」
は1912年で没後に出版されています。

  啄木は代用教員や新聞記者など職業を転々とする漂白の短い人生の中で、
その苦しみを文学で癒していたような破滅型タイプの歌人でした。

  啄木は日露戦争後の荒ぶる明治の日本を清風のように駆け抜けた詩人です。
フランスの画家ゴッホや詩人ランボーのようなところがあり、歌の評価が高まった
のは亡くなってからです。

  明治40年(1897年)には北海道に渡っており、函館の大火(8月25日)を経験して
います。   当時、函館の人口は8万8千人で東京以北最大の都市でした。
それがこの大火で1万2千戸も焼けるという大災害を受けたのです。

  啄木が借りていた青柳町の家は残ったものの、啄木が勤務する弥生小学校も
函館日日新聞社も焼けています。
 
  啄木はこの大火を機に函館を去り小樽、札幌、釧路と漂白することになります。
啄木にとり函館滞在の132日(5月5日〜9月13日)が最も幸福で精神的に実り豊か
だったようで多くの歌を作っています。

      東海の小島の磯の白砂に
     われ泣きぬれて
     蟹とたはむる

  この歌は「一握の砂」の冒頭にある一首で、函館に滞在した21歳の時の歌です。
小島というのは北海道のことであり、磯は函館の大森浜だとするのが定説です。

  啄木は「一握の砂」の広告文を自分で書いています。
「従来の青年男女の間に限られていた明治新短歌の領域を拡張して、広く読者を
中年の人々に求む」

 啄木は俳句の正岡子規のように短歌の改革者たらんとしていたのです。


  啄木は平易な言葉を使っているので小学生でもその抒情を味わうことが出来ます。
しかし、専門家から見ると、啄木の歌は東日本大震災の後に読んでもうそっぽく
ない本物のポエジーを表現しているというのです。

  山折哲雄氏は「その抒情性の奥に万葉集の世界につながる感覚を表現している」
と云っています。

  吉本隆明氏は「やさしい言葉で生活の中の隠れた心理や思想を的確に抽出して
おり、近代の第一級詩人だ」と評していますし、
作家の井上やすしは「日本史の上で五指に入る日本語の使い手である」と讃えて
います。
 
  啄木は平易な日本語を使用して奥の深い思想を表現しようと試みていたのであり、
近代日本文章語の確立者の一人ではないかというのが最近の私の個人的な意見
です。


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