情報のコーディネーター  第143号
     
           令和3年11月17日発行
           窮すれば通ず。 情報こそ反転の力なり。 コトバで心の壁を破れ。

                      今回の目次
               □  アイヌの先住民族性について


  古代から近世まで、東京都と埼玉県と神奈川県北部を併せた地域を武蔵国と呼んでいま
したが、この「むさし」は古代の人の発音「むんさし(munsasi)」に由来するとされます。

  「munsasi」とは何を意味するのかですが、アイヌ語でmunが草、sasiが野原を意味
するのに対して、日本語でこのような解釈は到底困難です。

  アイヌが「草の野原」と呼んだ「むさし」は、家康が江戸に入府するまでの武蔵国の景観を
その通り反映した名前です。

  武蔵国の大部分は、関東ローム層という火山灰質の土壌が厚く積った武蔵野台地上に
あり、深い井戸を掘らねば水は得られず農耕に適さない土地でした。

  その為、弥生時代になっても水田は開かれず、人も余り住んでおらず、焼畑が細々と続
けられ、ススキが一面に生えている原野だったのです。

  奈良時代に大和から東山道武蔵路を通って国府のある府中まで旅して来た都の人も、
歌に武蔵国のススキが原に昇った月がいつまでも山にかくれないと詠っています。


  アイヌ語語源の言葉は、『万葉集』や『肥前風土記』などにも見られます。

  言語学者のA.・ヴォヴィン氏に依れば日本列島の全域でアイヌ語が話されており、
アイヌ語は日本列島全域にいた縄文人の言葉であったと結論付けています。

  考古学者の瀬川拓郎氏は、「アイヌこそ縄文人の正統な末裔である」と云っています。

  紀元前1000年頃、大陸から渡来した弥生人が稲作を始め弥生文化、古墳文化を日本列
島に広めると、その受容を拒否した縄文人は列島の北部へ移動して行き、やがて北海道だ
けに住むようになったと考えられます。

  日本人のルーツという点では、弥生人とその他の渡来人と縄文人の混血とするのが最新
の定説(埴原和郎氏の「二重構造モデル」)です。

  そして、遺伝学者斉藤成也氏は、現代日本人のDNAの約12%は縄文人から受け継いでいる
とします。

  つまり、日本人のルーツは、弥生人だけでなく、縄文人もその一つなのです。

  約35000年前に列島へ渡来した後期旧石器時代人は、やがて土器という文化を発明して
縄文人となり、山内丸山遺跡では1万年も定住していたことが分かっています。

  そんな縄文人がアイヌの先祖なのですから、アイヌが日本列島の先住民族であることは
疑いようもありません。

 
  令和2年7月に北海道の白老町に、愛称をウポポイ(大勢で歌うという意)と云う「民族共生
象徴空間」(国営の施設)が開館しました。   

  この中に日本初の国立アイヌ民族博物館が入っていますが、根拠法である「アイヌ政策
推進法」(令和元年5月施行)の第1条で「先住民族であるアイヌの人々」と規定し
アイヌの先住民族性が明記されています。


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