情報のコーディネーター 第120号
平成30年5月16日発行
窮すれば通ず。 情報こそ反転の力なり。 コトバで心の壁を破れ。
今回の目次
□ 国分寺界隈散歩
中央線の西国分寺駅から少し歩くと武蔵野の面影を感じさせられる森がありました。
都立武蔵国分寺公園の広い芝生の空間を過ぎると鬱蒼とした森が現れ、その中を急な細い坂道が
続いています。
坂を下り切ったところに 環境省選定名水百選に選ばれている湧水がありました。
なぜこんなところに湧水があるのだろうと思いました。
実はこの辺りのやや北に国分寺崖線というのが北西から南東に走っていて、この崖線の麓から湧水
が流れ出ているのです。 国分寺崖線の上の台地を武蔵野台地と云います。
さて、1260年位前、湧水の出るこの地に聖武天皇の命により建立された武蔵国分寺という壮大な寺
があったのです。
大正11年に国史跡に指定され、今も国分寺市が保存整備事業を続けています。
天平時代には府中市に国府があり、奈良の都と繋がる東山道武蔵路が開かれ、ここは武蔵国の
政治の中心だったのです。
しかし、やがて寂れ、江戸時代には尾張徳川家の御鷹場になっていました。
「お鷹の道」と呼ばれる散歩道の脇を湧水のきれいな小川が流れていてアブラハヤなどの小魚やスジ
エビが生息しています。
ところで、武蔵野の原風景は、「月の美しい、茫漠としてどこまでも続く原野」というものです。
多分、文化的に開けた土地は武蔵国分寺のあった付近だけで、崖線の上の台地は原野のままだったの
だろうと想像されます。
14世紀初めの『とはずがたり』には、「野の中をはるばる分けゆくに、萩・女郎花・荻・芒よりほかはまた
まじるものなく、これが高さは馬に乗りたる男の見えぬほどなれば・・・」とあります。
曠野蒼茫とした武蔵野が変わり始めるのは、家康の入府後です。
人口の急増に伴って武蔵野台地でも玉川上水などが開削されて農業が始まり、原野の中には社寺林、
屋敷林、街道防風林、雑木林が植えられ、国木田独歩の『武蔵野』にあるような人の生活と自然が入り
混じった田園風景になって行きます。
しかし、その風景も戦後の宅地化によりほとんど消えてしまったのです。
今に武蔵野の面影を微かに伝えるのは武蔵国分寺跡付近だけなのかもしれません。
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