情報のコーディネーター  第117号
         
           平成29年9月28日発行
                  窮すれば通ず。 情報こそ反転の力なり。 コトバで心の壁を破れ。

                          今回の目次
                       □ 金沢八景と夏島


 歌川広重の浮世絵木版画金沢八景を知らない人はいないと思います。
しかし、ここに描かれた八つの景観はとっくに消滅しており、期待して訪れると狐につままれたような感覚
を味わうことになります。

  金沢八景はどのようにして名のみとなってしまったのか、神奈川県人は語ろうとも知ろうともしていない
ように見えます。

  私は9月に遅い夏休みを取り、夏島まで行って来ました。
夏島は今、日産自動車の工場とテストコースに取り囲まれていて、周囲1キロ、高さ40m程の森に覆われ
た小山に過ぎません。

  まだ米軍に接収されていた昭和25年に夏島の貝塚が初めて発掘調査されて、9500年前の日本最古
の縄文人の貝塚と分かりました。  その関係で追浜から夏島までの通りを夏島貝塚通りと云います。

  それまでは夏島は要塞地帯の中にあったので立ち入りが困難だったのです。  米軍将校の中に日本
の起源に興味があるインテリがいて、彼らが調査に向けて動いてくれたようです。


  さて、夏島は、広重の絵では追浜海岸(横須賀市立北図書館がある辺り)から1キロ位隔てて海に浮か
ぶ小島で、その隣に見える烏帽子岩とやや離れて見える野島とが織り成す構成美は中景の絶景ポイント
だったのです。

  今では夏島の周辺の海は埋め立てられて、白砂と松の林が美しい追浜海岸も独特の形の烏帽子岩も
なくなっています。

  夏島周辺の景観は、大正15年に横須賀海軍航空隊(設立は大正5年)の追浜飛行場が完成した時に消
滅したのです。
夏島は麓が削り取られ浅瀬の埋め立てに使われ、周囲4キロから1キロにまで縮んでしまったといいます。


  平潟湾の入口にどっかりと腰を下ろした野島は金沢八景の中心的位置占め、平潟湾はかって六浦湊に
繋がる広々とした湾で、瀬戸橋から先の内川入江もずっと奥まで広がっていました。

  私はこれまでどのように埋め立てられていったのか、全く経緯を知りませんでした。
今回調べて見て、江戸初期から永島一族が内川入江の塩田化を進め、180年掛けて泥亀新田(でいきしん
でん)を完成させていたことを知りました。

  瀬戸橋の近くに姫小島水門という満潮を堰き止める為の水門の跡(現在は復元されている)がありますが、
現在の京急金沢八景駅は瀬戸のすぐ傍ですから、江戸後期には泥亀新田はここまで広がっていたことに
なります。

 しかし、内川入江がほぼ泥亀新田になったとしても、金沢八景の7割の景観はまだ保存されていました。
帝国海軍による夏島周辺の埋め立てにより、金沢八景の景観崩壊は止めを刺されたのです。

  その横須賀海軍航空隊も設立から29年で消滅します。  夏島から1キロ南西にある貝山緑地という丘陵
地にその碑が残っているだけです。

  日本の歴史から見ると29年なんて瞬時に過ぎません。
鎌倉時代から数えると800年の歴史を秘めた貴重な景観がそんな一時の幻のようなものに消されてしまった
というところに、私は近代という魔物の一断面を見た気がします。



 ※ ご感想・ご意見をお寄せ下さい。

      →メールアドレス
::redume@jcom.home.ne.jp





    発行者  :  行政書士田中 明事務所
  〒239-0822  神奈川県横須賀市浦賀5丁目42番11号
             TEL・FAX 046-843-6976
    マガジン説明用Webページ : http://lantana.parfe.jp/melkakez01.html
     内容証明郵便でブレイク! : http://lantana.parfe.jp/   
    インターネット法務支援室  : http://lantana.parfe.jp/seotope