情報のコーディネーター  第106号
         
        平成28年7月25日発行
                窮すれば通ず。 情報こそ反転の力なり。 コトバで心の壁を破れ。

                          今回の目次

                □ 世阿弥の「初心忘るべからず」について


  「初心忘るべからず」の「初心」とは、最初の志と考えるのが一般的です。
若き日の志を離さず持ち続けていればいつか実現することがあるという風にプラス思考の言葉と
何となく思っているところがあります。

  しかし、世阿弥(1363~1443)の『花鏡』に由来するこの言葉は、世阿弥の芸道論と深く関係して
おり、本来の意味はそれと全く違うのです。

  当時の芸能界は今と同じく激しい競争社会であり、芸の差別化(ブランド化)を図らないと生き残
っていけませんでした。

  観世座を主宰する世阿弥は、「幽玄」を以て猿楽のブランドとしました。
「幽玄」と聞きますとわびさびのイメージがありますが、世阿弥の「幽玄」とは「美しく柔和な風情」「
静寂で枯淡な風情」であり、観客には雅な「花」と映るものです。

  世阿弥は「花と、おもしろきと、めずらしきと、この3つは同じ心なり」と云います。  猿楽の祖型
は「物まね」であり、元々笑いを誘う物真似芸が源流なのです。

  しかし、世阿弥になると大分進化して「おもしろき」は「美しく風情がある」に、「めずらしき」は「滅
多にないほどすばらしい」というの意味になっています。

  世阿弥は「花」に「時分の花」と「まことの花」があるとします。

  「時分の花」は若さを失えば消えていく花です。  「まことの花」とは一生涯掛けて追及する花で
老年期に入って咲く「花」です。

  この「まことの花」を求めて稽古をしていく際に忘れてはならないのが、世阿弥の云う「初心」なの
です。  この「初心」には「是非の初心」「時々の初心」「老後の初心」があると云います。

  「是非の初心」の「非」とは入門した頃の未熟な演技や自分の欠点であり、それを乗り越えてうま
くなった経験が「是」です。   これが「まことの花」を目指す上での心得だと云うのです。

  「時分の花」に満足していては「まことの花」を咲かせることが出来ないだけでなく、それどころか
未熟な頃の演技に退行してしまってもそれに気付かないということが起こり得る。

  そうならない為に入門した頃の未熟な演技とか自分の欠点をいつも忘れてはならないのである。

 「非」によって今現在の芸のレベルを正しく認識し、入門した頃の未熟な演技に戻りたくないという気
持ちを起こし「是」を活用して行けば今より芸を向上させられる筈だと、世阿弥は云うのです。

 「時々の初心」とは、年齢と伴に重ねて来た経験を忘れず今の芸の味に生かせということです。

  「老後の初心」ですが、老後は未経験な事態という意味で入門した頃と同じであるから、「是非」を活
用すれば乗り越えて行かれる筈であると云うのです。

  「物まね」を究めるとまねるという意識もなくなって自己を忘れると云います。 
「老後の初心」により乗り越えた時は、自己を忘れる時であり、その時、究極の幽玄美が現成して
「まことの花」が咲くのです。


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