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    < エッセー>  お彼岸と仏教思想



  「暑さ寒さも彼岸まで」と云います。 春分の日が来るともう霜も下りなくなりますし、
逆に秋分の日が来ると真夏日はなくなります。  尤もこの感覚が膚で分かるのは
残念ながら関東以西に住む人だけです。   面白いのは同じ彼岸でも春と秋では
平均気温が全然違うことです。  東京で春の彼岸が3.3度なのに対して、秋の彼岸
は18.5度です。   しかし、こんなに差があると思わないのが普通です。  同じくら
いの気温に感じているのですから人間の感覚とはけっこう曖昧なものです。
  さて、この日本の伝統的習俗であるお彼岸とは一体何なのでしょう。
例によってグーグルで調べて見てびっくりしました。   聖徳太子の時代からある古
い行事でしかも日本にしかない習俗だそうです。  つまり、日本の先祖信仰と色濃く
結び付いた習俗なのです。
  彼岸とは、サンスクリット語の「パーラーミター(悟りの世界という意味)」を「到彼岸」
と訳したことに由来するそうです。  春分の日と秋分の日は、昼と夜の長さが同じに
なる日です。  この日を「中日」として前後三日を併せた1週間をお彼岸としたのは、
多分仏教でいう「中庸」と関係があるのだと思います。
                   
  仏教では、悟りに至る方法として、六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)
を説きます。  一般の人が毎日をこれを実践せよと言われても中々出来ません。 
そこで、せめてお彼岸の時だけでも仏教の原点に立ち返らせようとしたのでしょう。 
先祖の墓に参り水をたっぷりと掛け花や好物をお供えしローソクと線香を立てることが
六波羅蜜の実践になるのだと、当時の僧侶が説いたのです。
  これはひとつの方便ですが、仏教を一般庶民に近いものにするにはこおいう方法し
かなかったろうことは容易に想像出来ます。  なにせ当時の庶民は、圧倒的に文字
は読めなかったのです。   そんな庶民に、「空」とか難しい仏教の説法をしても分る
訳がありません。  その意味では存在する仏典の多くもまた「空」を説明する為の方
便を語っているのだと言われることも、何となく頷けます。
                   
  「ぼた餅」「おはぎ」の由来もお彼岸と関係があります。  最近では、「ぼた餅」「お
はぎ」もスーパーで買うのが普通になりましたが、昔は祖母がよく家で作っていました。
「おはぎ」と呼ぶようになったのは、秋の彼岸に萩の葉をかたどってこぶりで長めに丸
めて作ったからで、又「ぼた餅」は、春の彼岸に牡丹の花をかたどって丸く大きめに作
ったからだそうです。  「ぼた餅」と「おはぎ」の違いも知りませんでしたが、昔の人は
デザートを作るにもこんなに季節感を豊かに反映させていたのです。
  結局、お彼岸とは、お盆と同じでご先祖様を敬うという日本固有の仏教行事なのです。
しかし、それも今では言葉だけが残って季節の節目を示す記号のようになっています。
元々先祖信仰という日本人の土俗信仰が仏教に取り込まれていった行事です。  
高学歴となった現代の日本人は、感じ始めているのかもしれません。  本来の仏教と
は少し違うみたいだぞということを。

  仏教の根本思想は一切皆空です。 即ち、外の世界に何か実体的な物を一切認め
ません。  外にある物は心が作り出した幻影、或は仮の姿だと考えるのです。 そして、
その心も刹那的にあるものにすぎず実体的な存在とは認めません。  ですから、「我」
とか「自分」といったものも否定します。  自我があると錯覚してしがみつくから煩悩が
起って来るのだと考えるのです。                
  ヨーロッパの思想には物が先か心が先かといういわゆる唯物論か唯心論かという
議論がありますが、仏教は唯心論に近いのです。
面白いことに最近では科学が段々と仏教の思想に近づいて来ているところがあります。
例えば、電子という物質がありますが、これは波であり粒子であるとされます。 波と粒
子というのは物理的に全く相容れない性質のものですから、結局電子に実体はないと
考えざるを得ないのです。
 また19世紀に現れて二千年来のユークリッド幾何学に一部修正を迫った非ユークリッ
ド幾何学では、公理というものを一つの仮定であるとしています。
                   
  20世紀で最も影響力のあった思想にマルクス主義という唯物論があります。
この終末論的ユートピア思想の結末が社会主義国家体制の崩壊であったことは、記
憶に新しいところです。
  1989年、監獄から解放されてチェコの大統領に就任したバベルは、米国議会でこう
演説したそうです。
「私たちは恐ろしい経験をしたが、そこから貴方に教えられることが一つある。 それは、
共産主義者が言うように存在が意識に先立つのではなく、意識が存在に先立つとい
うことである。  共産主義社会においては、人々は命令された通りにしか動かず自
分では何もしようとはしなかった。 世界の変革は人間の心の内にしかないのです」
     (岩田 靖夫著「ヨーロッパ思想入門」岩波書店より)
 「意識が存在に先立つ」とは何と仏教的で唯心的な感慨ではありませんか。  こう見
て来ますと、仏教が実にポストモダンな思想に映ります。  近くにあって遠かったのが
今までの仏教だったのかもしれません。




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