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   < エッセー>  安心を与えてくれる禅語


       
       「喫茶去( きっさこ )」
  「喫茶去( きっさこ )」とは、唐の時代の趙州(じょうしゅう)という有名な禅僧が禅問
答で云った言葉です。  「まあ、ちょっとお茶でも一服なさい」という意味だそうです。
一般の人にはどこがそんなに禅的なのかは分かりません。 
  しかし、この言葉を聞いてある僧は悟ったといいますから、中々深い言葉なのです。
では僧は何を悟ったのでしょうか。 
悟りは個人的な体験ですから他人には分かりませんが、要するに分別の世界には
現れていない智慧を自覚したのであろうことは想像されます。
 「喫茶去( きっさこ )」は無心の境地を表わす言葉とされており、
茶道の精神とも共通していますから、茶室の掛軸にはこの禅語がよく使われます。
                     
 我々が普段生きている世界は分別の世界です。  少しでも他人と差別化し集客
して収益を上げねばとあくせくしています。 
 そうしないと食べて行けないのですからそれもやむを得ないことですが、その結果
不安や迷いやスランプと云った苦が何時も隣合わせなのもこの分別の世界です。
「知に働けば角が立つ」といって、知識が増えれば増えるほど苦や迷いも増えていく
というのが分別の世界なのです。
  しかし、禅は苦からの解放(心の平安)を目差しながら、分別の世界から全然逃げな
いのです。  逆に分別の世界にどっぷり浸かりながら、どうやって心の平安を得るか
という智慧を目差しています。  
  さっきの僧の悟りも、「喫茶去( きっさこ )」と聞いて分別の世界に埋もれていたもの
に気づいただけという感じなのです。
「空則是色」といいますが、智慧を悟れば分別の世界が居ながらにして平安な世界に
変わるということ云っているのでしょう。

    「大死一番、大活現成」
  「大死一番、大活現成」は、死んで生きるという意味です。   苦しい時、悩む時は
徹底的に苦しみ悩み抜けというのです。  どん底に落ちなければはい上がることも出
来ないし、迷いがなければ悟ることも出来ないからです。 こうなると禅も生易しいもの
ではないという気がします。
  禅とは分別の世界に現れている自己を否定して、何時もは後ろに隠れている本来
の自己と出会う為の方法です。  本来の自己とは、無心であり、喫茶去( きっさこ )の
世界です。

  禅では日頃自分と思っている自分など妄想に過ぎないと切り捨てます。 
そんな自分が本当にあると思ってしがみついているのが迷いの本体だと見るのです。
禅とは実に有難い思想だと思います。 分別の世界から逃げなくても見方を変える智慧
を持てば心の平安が得られると云っているからです。
 その智慧をもっと簡単に言えば、「心配するな、何とかなる」ということでしょうか。




                  行政書士田中 明事務所