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   < エッセー>  大乗仏教のパラドックス



  言葉には心を開放してくれる力がありますが、その一方で限界やマイナスの面も
併せ持っているというのが言葉の真実です。
限界やマイナスの面とは、心を縛りつける働きが言葉にあるということです。
つまり、言葉にはそれに対応するものが実体として存在していると脳に思わせてしま
う働きがあるのです。
  言葉が現代ほどには溢れていなかった大昔でも、それに気付いていた人々がいまし
た。  釈迦の教えを引き継いで発展させて行った大乗仏教徒です。
今から二千年位前に作られた大乗経典に「金剛般若教」があります。
この中に「AはAにあらず、ゆえにAという」というパラドックスが書かれています。
これは一体何を云おうとしているのでしょうか。
  定方晟氏は著書「空と無我」で、Aを薔薇に置き換えて説明しています。
薔薇(言葉としての薔薇)はそこに見える薔薇とは違うし、薔薇の概念に過ぎない。
言葉としての薔薇は実体として何も存在しないのである。
  その意味で言葉とは他から区別する為の道具に過ぎない。
だから、薔薇という言葉は他から区別する為に薔薇と命名されただけである。
という趣旨のことを書かれています。
                      
  大乗仏教では言葉に対応する実体があると思うのが妄想だと見るのです。
ニーチェも同じことを云っています。
「実体としての自己を信じて、自己という実体の信仰を万物に投影する」
                                 「偶像の黄昏」
  ニーチェは過去の西洋哲学を否定して実存哲学を切り拓いた人です。
大乗仏教は最近まで忘れられていた思想ですが、こうして見ると最もポストモダンな
思想だったのです。



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