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    < エッセー>  歌舞伎十八番 勧進帳



  義経と弁慶が安宅の関(あたかのせき)を通過したのは文治3年(1187年)のこと
です。  そこで起こったドラマチックな出来事は14世紀頃の口承文学「義経記」
(ぎけいき)に登場し、15世紀後半には能「安宅」が作られました。
歌舞伎の「勧進帳」として初演されたのは、江戸期の天保11年(1840年)のことです。
それ以来、勧進帳は人気を集め、歌舞伎の代名詞となっています。
 平成19年の3月、市川団十郎はパリ・オペラ座(オペラ・ガルニエ)で歌舞伎公演をし
ました。  演目はやはり勧進帳でした。
  30年も前のことですが、私が東京・歌舞伎座で初めて見た歌舞伎もやはりこの勧
進帳です。 生まれも育ちも北海道の私には、歌舞伎は江戸・東京を最も感じさせる
文化のひとつでした。 歌舞伎の観劇というのは実に優雅です。 午前10時に始まっ
て昼には幕の内弁当を食堂で取ると、また後半の部を見るのです。
  弁慶が非常な嬉しさを体全体の動きで表現しながら、花道を早足で跳ねるように
退場していくラストシーンが今も浮かんで来ます。 この弁慶が手足や体で表す喜び
の仕種を、石投げの見得といいます。 石を投げているような格好に似ていることから、
そう呼びます。
この見得がある場面が最も盛り上がった山場で、観客も弁慶の気持ちとひとつになっ
て同じ感動を共有することになります。
                          
  さて、勧進帳の何がそんなに感動的なのでしょうか。 判官びいきという言葉があり
ます。  義経は平家打倒の最大の功労者でありながら頼朝に追討される身となり、
余りにも悲劇的過ぎる運命を余儀なくされたからです。 
 しかし、そんな義経でも弁慶ら家来達は裏切りません。  義経の一行は山伏の姿
になって平泉に逃げる途中、安宅の関に差し掛かかります。   安宅の関の関守は、
富樫左右衛門泰家といいます。 富樫は義経の一行が山伏に変装しているという情報
を得ていましたから、一行に対し疑い深く尋問を始めます。
  そこで、弁慶は驚くべきパフォーマンスを演じ切るのである。  天才的とも言える機転
でした。  巻物を見せて勧進帳だと嘘を言い勧進帳の空読みを長々とやって見せます。
  しかし、富樫の疑惑を晴らすには至らず、富樫は一人の山伏を指して義経に似ている
と疑いの追及を止めません。  ここに至り弁慶は突然金剛杖でその山伏を何度も何度
も富樫に静止されるまで殴り続けるのである。  あろうことに弁慶は主人の義経を殴り
続けたのである。
  当時の主従関係の掟からは、家来が主人をどんな理由であれ殴るということはあり
得ないことなのである。  だから、弁慶が殴り続けた山伏は義経ではないと判断しても、
必ずしも責められないでしょう。 富樫だってこれまで義経に会ったことはないのですから。
                          
  勧進帳では富樫が内心で義経に違いないと確信していたことになっています。
そして、ここでもうひとつのドラマが起こるのである。  富樫は自分の内心の確信にも拘
わらずもう追及することを止めてしまうのである。

  つまり、富樫は弁慶が演出する劇の中で自らも遂に役者を演じてしまったのである。
富樫のこのシーンについては、色々な解釈が成り立つと思います。  一般的には、主従
関係のタブーを破ってでも主人を救わんと咄嗟に機転を利かせた弁慶の義経を思う気持
ちに武士の富樫は打たれたということになっています。
  実際にはあり得ない話ではあっても、あったかもしれないし劇にするとスリリングで
不思議な情感の世界が出現するのがこの勧進帳なのです




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